
魚と向き合う
2軒の下町割烹

岩本町1丁目交差点に建つ「つぶ庵」。和菓子屋を思わせる店名と外観が、この界隈の空気に自然と溶け込んでいる。「こし庵」はこの左側に建つ。
店名の由来と、2軒体制に至るまで
JR 神田駅南口から神田金物通りを東に進み、岩本町1丁目交差点を渡る。そこに「こし庵」、「つぶ庵」という瀟洒な看板を掲げた店舗が並んでいる。和菓子屋を思わせる店名とは裏腹に、立て看板には「黒鮪と下町割烹」、「日本酒」、「銀ダラ西京焼き」、「黒マグロ刺」といった文字が躍る。
「よく店名のことを聞かれるんですが、元々は道路を渡った、現在解体中のビルで『こし庵』という名の蕎麦屋だったんです」と語るのは、店長の河野将也さんだ。オーナーの姓が越田であることから、蕎麦屋の店名によく使われる「庵」の字を用いて「こし庵」と名付けられた。昼は蕎麦、夜は魚介を中心とした居酒屋というスタイルだったそう。代替わりを機に蕎麦をやめ、居酒屋一本で勝負することを決断。2021年8月に現在の場所へ移転した。ちょうどコロナ禍の真っただ中で、営業はテイクアウトのみ。そこで始めた弁当販売が思いのほか好評を博した。だが、1店舗では仕込みにも数にも限界があった。そんな折、隣のテナントが空き、2店舗体制へと踏み切る。「姉妹店だとわかる名前にしたかったので、『つぶ庵』にしたんです(笑)」と河野さんは振り返る。河野さんは料理の専門学校を卒業後、東銀座の料亭で9年間修業を積んだ。その頃、交際していた女性がアルバイトをしていたのが、蕎麦屋時代の「こし庵」だった。客として通うなかで、蕎麦屋の夜営業とは思えないほど、本格的な魚料理が出てくることに強い印象を受けたという。
「大変僭越ながら、蕎麦屋なのに魚料理がここまで本格的で、美味しいことに驚きました」と、当時を振り返る。
料亭では、決められたコースの流れに沿って料理が進む現場を経験してきた。一方で、「こし庵」の夜に供される魚料理は、混沌としがちな居酒屋の現場で、無理なく、しかも味を崩さずに提供されていた。どのように、この店を回しているのか。なぜ、これだけメニューが多いのに味が安定しているのか。この先、料亭の経験だけで、自分は店を持てるのだろうか。そんな問いを抱えながら通ううち、オーナーと腰を据えて話す機会を得た。考えを率直に伝え、この店で料理を学びたいと申し出て、こし庵で働くことを決めたのが約10年前のことだ。その後、彼女ともめでたくゴールインすることができた。

カウンターを中心としたつぶ庵の店内。仕込みと調理の動線を意識した造りが、昼と夜の営業を支えている。

こし庵の店内。肩肘張らずに魚を楽しめる空間づくりが、日常使いの店としての居心地の良さにつながっている。

店長の河野将也さん。料亭での修業と居酒屋の現場、2つの経験が「こし庵」「つぶ庵」の料理に生かされている。
「冷凍は使わない」
—看板に掲げた生マグロへの矜持
この店の軸に据えられているのは、夜に供されるマグロである。「看板に掲げる以上、マグロの質は絶対に落とさない。そこだけは約束事のように守っています」。その言葉通り、冷凍ではない生のクロマグロのみを豊洲の専門店「米彦」から毎日仕入れ、「いちばんいい状態」に整えて提供する。
刺身盛り合わせには、朝締めのマダイを基本に、歯ごたえのある白身魚を必ず入れる。「朝締めの白身が持つ、あの『ぶるぶるっ』とした弾力。これは寝かせた魚では絶対に出せない、その日仕入れた魚だけの特権なんです」と河野さんは熱く語る。刺身は寝かせた方が旨味が増すが、この歯応えは締めてすぐの魚でなければ味わえない。毎朝、新鮮な魚を仕入れているからこそできる仕事だ。
火を入れた料理もまた、実直そのものだ。銀ダラの西京焼きは、自家製のタレに漬け込んでから焼き上げ、仕上げに甘めのタレをひと刷毛かける。照り焼きに寄せつつも、甘さを前に出し過ぎない。脂の甘みは残し、後味は軽く整えられている。
一方、キンメダイの煮付けは、この店の姿勢が最も分かりやすく表れた一皿かもしれない。艶のある煮汁をまとった身は、箸を入れると抵抗なくほどける。甘辛の加減は控えめで、決して大ぶりではないが、身の厚みは十分だ。
夜は単品で1,100円、昼の定食でも1,100円。ランチではサイズを抑えながらも、食べ進めるほどに満足感が増していく。昼でも夜でも無理のない値で出されていることを思えば、この一皿に込められた思いが伝わってくる。
値頃であることを声高に謳わず、きちんとした魚を、きちんとした形で出す。その積み重ねが、店の信頼を支えているのだ。

生のクロマグロを軸に組み立てられる刺身盛り合わせ(写真は2人前)。朝締めの白身を必ず加え、その日の魚の状態を素直に伝える構成。

自家製のタレで焼き上げる銀ダラのつけ焼き。脂の甘みを残しながら、後口は軽く整えられている。

キンメダイの煮付け。艶のある煮汁をまとわせつつ、甘辛に寄せすぎない加減が、この店の実直さを物語る。
弁当からコースまで、街の胃袋を支える
夜の営業は両店とも同じメニュー。コース料理が主軸となり、利用の約8割を占めるという。「コースを頼んだらがっかりする店が多い」という、河野さんとオーナーの共通認識が背景にある。ならば、この店に来たらコースを選べば間違いない、そう思ってもらえる内容にしよう。前菜3点、刺身盛り、銀ダラ焼き、揚げ物を軸に、魚の持ち味を素直に味わわせる構成が組み立てられた。
コロナ禍をきっかけに、料理は大皿ではなく、1人ずつ供する形式へと改められた。取り分ける手間がなく、それぞれに状態の良い部分を出せる。その形が結果として定着した。飲み放題付きのコースは6,000円を軸に、時間内でしっかり食べ、きちんと飲んで帰れる設計だ。派手さはないが、魚を目当てに訪れる客の期待を裏切らない内容になっている。飲み放題も画一的ではなく、生ビールや日本酒の追加、時間延長といった要望にも柔軟に応じる。
貸切の相談も少なくない。人数ではなく金額を基準にし、つぶ庵は10万円から、こし庵は15万円から対応。一度貸切を経験した会社が、その後も同じ形で予約を入れることが多いという話からも、この店の姿勢が伝わってくる。
昼の弁当も、2軒を支える大きな柱だ。内容は日替わりだが、軸にあるのは魚。夜の営業とは切り離された存在ではなく、同じ素材、同じ厨房から生まれている。弁当は朝から店頭に並び、早い時間帯は無人販売となる。代金は箱に入れられ、特にトラブルもないという。誰かが見張っているわけではない。それでも成り立つのは、この界隈で働く人たちとの厚い信頼関係が、日々の積み重ねで築かれてきたからだろう。



界隈の企業を対象とした仕出し弁当として現在企画が進められている。これはその一例。興味のある方は電話にて相談してください。
レポート◎山根和明(広報委員会)
食いしん坊手帖 vol.35
こし庵/つぶ庵
東京都千代田区岩本町1-9-1
電話:03-3861-6531
- 営業時間
【月~土】
11:00~14:00/17:00~21:00(L.O.20:00)
- 定休日
土曜・日曜・祝日 - 席数
[こし庵]約30席(テーブル6卓)
[つぶ庵]23席(カウンター7席、テーブル4卓)
当ページに掲載している情報は、『法人なかま』発行当時のものです。現在の情報とは異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

