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vol.31|神田まつや

2025.10.01

「味は一代」。
昭和の文豪が愛した江戸そばの粋

定番の「もりそば」は880円。今なお1,000円でお釣りが来るのはありがたい。ちなみに、もりそばにはワサビが付かない。ワサビと海苔がつく「ざるそば」は1,210円。

築百年の堂々とした歴史的建造物

神田須田町の一角に、間もなく築百年を迎える建物がある。大きな提灯に「手打そば」と染め抜かれ、白い暖簾が風に揺れる。黒瓦の屋根と格子窓が街並みに溶け込みながらも、堂々とした存在感を放っている。格子戸を開けると、素朴な縄編みの椅子が並び、磨き込まれた木の柱とテーブルが柔らかな灯りに照らされている。天井には格子状の照明が広がり、奥には厨房がのぞき、そばを打つ音や湯気の立つ気配が届いてくる。老舗の雰囲気を大切にしながらも清潔で、肩肘を張らずに過ごせる空間。「神田まつや」は、明治17年の創業以来、震災も戦災もくぐり抜け、神田の街とともに暖簾を守ってきた。
現在の建物は1927年(昭和2年)に建てられた木造2階建て。東京大空襲の炎を免れた奇跡の店舗であり、2001年には東京都選定歴史的建造物に、2003年には千代田区景観まちづくり重要物件にも指定された。もはや単なるそば屋ではなく、都市文化の一部として守られる存在である。
昼どきにはサラリーマンがせいろを急ぎ手繰り、観光客が列をなし、夕暮れには常連たちが酒を傾ける。そこには老舗の威圧感よりも、人をつなぐ温もりがある。江戸のそば屋が果たしてきた「社交の場」としての役割が、いまもこの店では息づいている。
「最近は海外のお客様も増えて食事時は列ができてしまいますが、うちは高級店ではありませんので、肩肘張らないで蕎麦を楽しんでいただきたいです」と語るのは6代目店主の小高孝之さん。60歳の今も、毎朝そばを打ち、出汁を取り、客を迎える。140年続いたのは派手さを拒み、日々の積み重ねを貫いてきたからにほかならない。

風情ある佇まいを令和時代にも残してくれている。まさに都会のオアシス。

昭和2年築の木造2階建て。磨き込まれた木の柱と縄編み椅子が、老舗ならではの落ち着きを醸す。

そば粉と水を合わせる木鉢。江戸そばを守り伝える『木鉢会』の名の由来にもなった象徴的な道具。

6代目店主の小高孝之さん。伝統を守りつつ、時代に合わせて進化させる姿勢がまつやの味を支えている。

池波正太郎と6代目の記憶

まつやの名を広く知らしめたのは、作家・池波正太郎である。随筆『むかしの味』のなかで彼は「〔まつや〕で出すものは何でもうまい。それでいて、蕎麦屋の本道を踏み外していない」と記した。執筆の合間に立ち寄り、板わさや卵焼きを肴に一杯やり、最後にせいろを手繰る。その姿は小説に漂う江戸の粋そのものであった。
小学生だった孝之さんには、特別な思い出がある。大晦日になると、池波の自宅(武蔵小山)へ「年越しそば」を届けに行く役目を担っていたのだ。初めて会ったときの印象は「とても怖そう」だったが、実際には驚くほど優しい人だった。大作家というより、そばを心から楽しむ一人の常連。その姿は少年の胸に鮮やかに刻まれた。
「池波先生は、ただそばを食べるだけでなく、ここでの時間を大切にしていた気がしますね。店の味とともに、店の職人を愛してくださいました」と孝之さんは振り返る。文学とそば屋の記憶が重なり合い、いまでも池波ファンが全国から訪れる。彼が愛した席に腰を下ろし、同じそばを手繰ることで、池波ワールドに浸ろうとするのだ。

池波正太郎の随筆集『むかしの味』。ここで〈神田まつや〉は“何を食べてもうまい”と絶賛された。

江戸そばの老舗が集う『木鉢会』の加盟店一覧。まつやの6代目・小高孝之さんが会長を務め、伝統の技と味を守り続ける。

5代目から6代目へ― 手打ちと「味は一代」

小高さんの父・登志(5代目)は、昭和の転換期に大きな挑戦をした。昭和に入ってから江戸前そばは機械打ちが主流だったが、「何か特徴を出さねば」と考え、そば打ちの技を学ぶため「蕎風会」に参加したのである。そこでは神田藪そば、上野蓮玉庵、神田錦町更科といった老舗の先代たちからそば打ちの技法を学び、その集大成として1963年(昭和38年)、まつやは全面的に機械から手打ちへと切り替えた。これが現在の神田まつやの原型を形作った。
登志は2019年に86歳で他界した。息子に残した言葉は「あまり変えるな」だった。だが孝之さんは、父の教えを胸に刻みながらも、そば猪口や蒸篭、そしてそば粉を見直した。現在は玄そばの最高峰とも称される「常陸秋そば」が主力。クレームを覚悟したが、むしろ味にこだわる常連から「親父を超えたね」と言われたこともあった。小さな変化を積み重ねながら、本筋をぶらさずに続ける――それが6代目の仕事だ。
そばは外2割。そば粉5に小麦粉1を合わせる。「もりそば」にはワサビを付けず、「ざるそば」にはワサビと海苔を添える。そばつゆは下町の名残を映した少し濃いめの仕立て。冷たいそばつゆの出汁は本枯節2に宗田節1を合わせ、濃口醤油と砂糖のカエシを10日から2週間寝かせて使う。温かいつゆの出汁には鯖節を加える。三種の節が織りなす厚みは、名物の鴨南蛮などの熱いつゆに欠かせない。
父の代から受け継いだ味を土台に、自らの感覚で磨き上げていく。そこにあるのは、“ 変えない ” ことではなく“ 時代に合わせて変える ” ことへの覚悟だ。
「味は一代」と小高さんは言う。カエシの醤油ひとつをとっても、時代とともに塩分の量が変わる。同じように作っているように見えても、実際には少しずつ違っている。過去のやり方を死守するのではなく、むしろ時代に合わせて変えていった方がいい――その考えが「味は一代」という言葉に込められている。
140年を超える歴史を背負いながら、まつやは進化を続ける。池波が愛した “ 変わらぬ味 ” は、6代目の手によって未来へと受け渡されていく。暖簾は今日も風に揺れ、江戸の香りを漂わせながら次の世代を待っている。

挽きぐるみのそば粉を使った、神田まつやのもりそば。香り高く、外2割のしなやかな喉ごしが持ち味。

レポート◎山根和明(広報委員会)

食いしん坊手帖 vol.31

神田まつや

東京都千代田区神田須田町1-13
電話:03-3251-1556

  • 営業時間
    【火~金】11:00~20:30(LO 20:00)
    【土・祝】11:00~19:30(LO 19:00)
  • 定休日
    日曜・月曜
  • 席 数
    66席/全席禁煙

当ページに掲載している情報は、『法人なかま』発行当時のものです。現在の情報とは異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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