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vol.06|神田錦町更科

2023.09.01

創業150年。
江戸蕎麦の歴史をつむぐ

人気の二色天せいろ(天ぷらはアナゴやエビから選ぶ)。写真奥が更科蕎麦で手前が巨峰切り。

江戸蕎麦御三家のひとつ

夏季の人気メニューが「冷やししょうが天ぷらそば」
うだるような暑さで食欲なくても、ついつい箸が進んでしまう逸品。

戦後78年。焼け野原になった神田界隈に、その面影はもはやない。当たり前だが、戦争が終わるとすぐに平時が訪れるなんてことはない。食糧事情に関しては、むしろ戦後のほうが劣悪だったといわれる。食通で知られる作家の池波正太郎いわく、戦後に弁当を持たずに働きに出られるようになったのは5年後の昭和25年ころだったそう。ようやく蕎麦屋が再開されたのである。戦後の外食の復興は蕎麦から始まったと『むかしの味』(新潮文庫)に記されている。

「30年くらい前はね、神田だけで60〜70軒以上の蕎麦屋がありました。それが今や20軒もありません。後継者がいなかったり、店を畳んでビルを建てちゃったりで、往時の半数以下ですよ」と語るのは、神田錦町更科4代目の堀井市朗さんだ。

創業は明治2年。「藪」、「砂場」とともに江戸蕎麦御三家に数えられる。神田錦町更科は分店で、本店の麻布永坂更科の創業はさらに古い寛政元年(1789年)である。

蕎麦は各地の遺跡から出土するなど、米や小麦とともに古くから食されてきた穀物だ。文献に出てくるのは奈良時代からで、当時は麺の状態ではなく、お粥や蕎麦がきで食されていた。現在の蕎麦=蕎麦切りがいつ生まれたかは諸説あるが、元禄年間(1688〜1704年)に朝鮮からやってきた僧侶の元珍が、小麦

粉をつなぎとする方法を伝えたとされる。この蕎麦切りはたちまち江戸市民の胃袋をつかみ、それ以前からあったうどんを凌駕し、江戸のソウルフードとしての地位を確立する。信州高遠は保科松平家の御用布屋だった堀井清右衛門が、麻布永坂に『信州更科蕎麦所 布屋太兵衛』という蕎麦屋の看板を掲げたのは、まさにこの時代である。

店内に掲げられていた「木鉢会」の看板。「もはや戦後ではない」といわれた昭和30年代に入ると、東京に続々と蕎麦屋がオープンした。
伝統の味を守るために昭和33年に結成されたのが「木鉢会」。現在も20店舗ほどが加盟している。

変わり蕎麦を目当てに遠方から訪れる

神田錦町更科の創業者、堀井丈太郎は麻布永坂更科六代目の堀井松之助の妹と従兄妹の間柄で、妹の婿養子になる形で結婚、分店として「神田錦町分店」を開店した。更科はそれ以前に一軒も暖簾分けをしていなかった。蕎麦作りの秘伝を血縁者以外には伝えないという掟で、更科ブランドは守られていたのである。蕎麦通なら一度は訪れてみたい老舗中の老舗だが、この店のいいところは、あくまでも庶民の味方というスタイルを貫いているところだ。

「元来、蕎麦というのは高級な食べ物なんかじゃないんです。せいろの上にちょびっとだけ蕎麦が載っていて1,000円もするような店が、最近では少なくないようですがね」

と市朗さん。

そしてまた、これだけの歴史があるにもかかわらず、その上にあぐらをかくわけでなく、常に変化を取り入れている。その一例が、週替わりで楽しめる変わり蕎麦と、店主自ら情報を発信し続けるTwitterである。コロナ禍に始めたにもかかわらずフォロワーはすでに2万人超。

撮影時の変わり蕎麦は、竹炭切り。この前週はすいか切り。定番のゆず切り、大葉切りなどのほか、ザクロ切り、カシス切り、アサイー切り、メロン切りなど、さまざまな変わり蕎麦を打ち出している。

千穂夫人によると、これらの変わり蕎麦を目当てに、遠方から来るTwitterのフォロワーも少なくないという。

「変わり蕎麦のネタに関して私があれこれ言うと怒られるので、口出ししないようにしています。でも、娘の言うことは聞いているみたいですけど笑」

と千穂さん。

取材時の変わり蕎麦は「竹炭切り」。竹炭自体は無味無臭だが、デトックス効果がある。

更科蕎麦の生蕎麦。この白さが特徴。舌触りと喉越しがとてもよく、ほのかな甘みがあるのが特徴だ。

蕎麦打ちで最も重要な「木鉢作業」

蕎麦打ちは、「一鉢・二延し・三包丁」と言われる。4代目も蕎麦作りにおいて最も重要なのは一鉢の「木鉢作業」であると断言する。更科蕎麦の代名詞である更科粉と小麦粉と水を木鉢で合わせて手でかき混ぜ(水回し)、ゆっくりと押し出すように練り、しっかりと練り込んだら表面が滑らかになるように丸くまとめる。簡単なようだが、包丁三日、延し三月、木鉢三年とも言われるように、蕎麦打ちの行程で最も熟練の腕が求められる。更科粉というの

は、蕎麦の実の中心部にある胚乳だけを使った上質な粉のこと。一番粉ともいわれる。精粉に技術が必要で、しかも採れる量が少ないため値も張る。でんぷん質が多く色が白いことから「更科」と呼ぶようになった。変わり蕎麦を作りやすいのも更科の特徴だが、その作り方は門外不出の秘伝。

そして、毎朝4時から出汁を取るのは5代目の雄太朗さんの仕事。出汁は冷やし蕎麦のつけ汁と温かい蕎麦のおつゆとでは取り方が異なる。冷たい蕎麦は鰹節(本枯節)、温かい蕎麦には鯖節や宗田節を用いる。この出汁とかえしを合わせてそばつゆになるわけだが、冷たいそばつゆは、気温にもよるが2~3日に寝かせて熟成させるとさらに旨味が増すという。

知る人ぞ知る話だが、女流漫才師の礎を築いた内海桂子さんは幼少時代の昭和6~8年にかけて、子守奉公として神田錦町更科に住み込みで奉公していた。満9歳でやってきた内海さんを大層可愛がっていたというのが、市朗さんの祖父にあたる2代目の堀井亀雄。「終戦後、神田で手打ちそばを打つことができたのは私の祖父さんだけで、祖父さんが手打ちのやり方を、他店にも伝授していったそうです」と店主。

内海さんが奉公していた時代は、お店の敷地面積は200坪ほどで中庭もあり、純白の更科蕎麦は宮内省御用達だった。毎朝、更科と書かれた印半纏をまとい、腰に門鑑をぶら下げた若い衆が、5,6台のクルマに乗って宮内省に入っていったという。戦後、芸人として活躍し始めてから内海さんが久しぶりに錦町を訪れた際には、現在の家族経営の佇まいに様変わりしていた。建物は空襲で全焼したうえに土地の大部分を財産税等で没収されてしまったのだ。内海さんの記憶だとお店の広さは当時の10分の1くらいになっていたと。この話は『転んだら起きればいいさ―女芸人の泣き笑い半生記』(主婦と生活社刊)に詳しい。

バブル時代には再開発の話が持ち上がったが、「冗談じゃねえや」と突っぱねて、家族で額に汗する道を選んだ。そうして今日も、明治2年から続く秘伝の蕎麦がつむがれているのである。

4代目の堀井市朗さんと奥さんの千穂さん。長女の奈穂子さん、5代目を襲名している次男の雄太朗さんの家族4人でお店を切り盛りしている。

歴史を感じさせる瓦屋根の日本家屋。「バブル期に調子に乗ってビルにしていたら、もう暖簾はなかったと思いますよ」と4代目

レポート◎山根和明(広報委員会)

食いしん坊手帖 vol.06

神田錦町更科

東京都千代田区神田錦町3-14
電話:03-3294-3669

  • 営業時間
    【月~金】
    昼の部 11:00 ~ 14:30
    夜の部 17:00 ~ 19:00
    【土】
    11:00 ~ 14:00
  • 定休日
    日曜日・祝日
  • 席数
    全23席

当ページに掲載している情報は、『法人なかま』発行当時のものです。現在の情報とは異なる場合がございますので、あらかじめご了承ください。

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