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小児薬一筋、四百余年 家庭に根付いた信頼

宇津救命丸株式会社




社長の宇津善博さん



 子供を育てた経験を持つ方なら、この赤ちゃん用の常備薬を知らない人はいないはず。夜泣き、かんのむし、ひきつけ、乳吐きなどなど。この銀色の小さな丸薬が、どれほど多くのお母さんたちを、育児ノイローゼから救ってきたことか。さて、その創業から。

─慶長二年(1597)というと関ヶ原の前。

 一説によると初代は御殿医だったらしい。秀吉の怒りにふれて宇都宮家は取りつぶし。帰農して庄屋。農業の傍ら生薬を作り始めた。何でも旅の僧を助けて製法を伝授されたという。これは伝説。当初は「金匱救命丸(きんききゅうめいがん)」という名のとおり貴重な秘薬で、一粒米一俵と言われたそうです。献上したり、旅籠に置いたり。そのうち効能が認められ、各地に売り始めた。小児薬に切り替えたのは江戸の末期。栄養事情が悪く子供が早く死ぬ。何とか助けたいという使命感だったようです。成分は昔とほとんど変わっていません。ジャコウ、ゴオウなど八種類の生薬。ただ一つワシントン条約の関係で解熱作用のあるサイの角が使えなくなって、効能から解熱が消えました。

─神田との縁は。

 神田を選んだのは、薬問屋さんが多かったからでしょうか。神田に出張所を設けたのが大正8年、飯田橋にあった本社を現在地に移したのが昭和34年。6年前、創業四百年を記念してここに本社ビルを建てたのです。

─宇津救命丸は赤ちゃんのいる家庭の常備薬として完全 に定着しましたね。

 一貫して生薬の効き目、安全にこだわってきました。それが信頼をかちえたというか、ご家庭の習慣になったのでしょう。戦前から戦後しばらくはアンケートを見ても「祖母や母から勧められ」、が圧倒的。核家族の時代になってこれが崩れてきた。いい習慣が伝わらない。変わってテレビがご家庭に。テレビの初期の頃からCMには力を入れました。そして、「テレビで知った」が増えてきた。

─なにかエポックになった「出来事」は?

 今から20年前「宇津こどもかぜ薬」を出した時でしょうか。可愛いい女の子のシンボルを使った。実は男の子もいたんです。つまり2種類作った。新薬は女の子、生薬の方が男の子。それで売れたのは即効性のある新薬の方。生薬にこだわる先代ともめましてね。「救命丸はどうなってもいいのか」「今のお母さんはせっかちなんだよ」。説得して、結局女の子の方が残った。今や救命丸と肩を並べる商品に成長しました。この時確信がもてましたね。永く救命丸一本でやってきたけど、これからはいろんな商品にチャレンジできるのだと。この時父が社長を譲ると言った。

─最後にビジョンというか将来への抱負を。

 少子化問題は厳しいですね。こども向け商品ですから。これからはお母さんやお年寄りの健康に関わる商品も手掛けていかないと。老舗と言われるのは嬉しいけど、信頼、安心というプラスイメージに対して、暗い、古いという印象も否定できない。大変なことだけど、社名変更を含めて考えていかないと。私は36歳で18代を継いだけど、息子の代になるとまた考え方も変わるかも知れません。



大正初期の店頭ポスター





永く親しまれている宇津救命丸(上)と昭和59年発売の新宇津こどもかぜ薬
会 社 名宇津救命丸株式会社 うずきゅうめいがん(創業1597年)
住  所東京都 千代田区 神田駿河台 3-3
電  話03-3291-2661
事業内容宇津救命丸、宇津こどもかぜ薬、宇津こども下痢止め ほか

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